ろさたそ
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Stay hungry, stay foolish.
2008-03-10 Mon 12:04
頭書の件。
言わずと知れたジョブズの言葉。


最近この言葉に同意できるようになった。


最近、色々な社会人に会う。年齢層も様々。
会う人会う人、頭はキレるし、立ち居振る舞いもスマートだ。
仕事も間違いなくできるんだろう。


しかし、自分がこういう人たちのようになりたいと思える人は少ない。
なぜだろう??


それは、やはり何かを諦めてしまっているからだろう。
大それた理想や、強烈な自己顕示欲求を。

メッシの「僕はマラドーナ2世じゃない、メッシだ」という言葉の意味を考えろ、と後輩が書いていたけど、これこそまさに健全な自己顕示欲求だろう。


でも、諦めることは、裏を返せば相当程度賢い、ということなんだろうけど。


そういう意味でStay foolishの意味がわかったんだ。
foolishであり続けるためにはかなりcleverじゃなきゃいけないんだろうね。
パラドキシカルだけど。



それから、僕は自分の現時点での静的な状況がいかに幸せかを吹聴する人間と価値観を共有できない。
別に嫌いだと言ってるわけっでもないし、悪いと言ってるわけでもない。
ただ、本当に価値観を共有できないんだ。


だから、なかなかロールモデルが見つからないんだろうね。
ジョブズや村上龍は、すごく参考になるけどw


僕の中での幸せの定義は、体の内側から上昇志向や知的好奇心がとめどなく溢れて、自分を次の状況にドライブしようとしている状態のことを言うんだよね。


だから、これが尽きたら僕の人生はそこで終わり。
終わらせないためにはこれらを充溢させてくれるパートナーや友人が不可欠なわけだ。


stay hungryもわかった。

僕の中では、
「Stay hungry, stay foolish.」=「Stay smart-alecky」


カントナも「Never grow up, my friends」って言ってるしね。
あ、関係ないかw
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曖昧でない男女関係など、火星に行っても心中の途中でも、ありはしない
2008-01-27 Sun 11:36
僕の尊敬する友人のうちの一人が言った、

「世の中には無責任な書物が多すぎるんだ」と。

どういう意味で??

「全くもって、読むに値しない本が多いんだよ」


そりゃそうだ。世の中、本に限らず良質なものというのは非常に少ない。稀有だ。
でも、そんな本読まなければいいだけだろう、と僕は安易に言った。


「君は良いんだ、既にその本が良質のものかどうか、さらには自分にとって必要な本かどうかを見極めるリテラシーを持っているからね。」


でも、本を読む習慣があるような人たちは経験上それくらいのリテラシーは獲得しているだろう?


「確かに。でも、高校生や大学生で、初めてしっかり本を読んでみようと志した人たちにとっても同じだろうか?」



なるほど。全然違う。

初めて手に取った本が素晴らしい(必ずしも高尚である必要はない、次に繋がるものであれば良い)本であれば、その人の将来は明るい。
知的な意味での成熟はある程度期待できるからだ。


しかし、初めて手に取った本が「こい○ら」や「恋愛○真」だったらどうだろう。
ぞっとする。

読むに値しないどころか、絶望的に有害だ。

本を読むことの素晴らしさを享受できず、次への欲求が生まれない。


しかし、その種の家畜の餌にでもしてしまいたい類の本ほど、書店の一番目に付く特等席に陣取っている。


そりゃ、そうだ、売れるからね。

そんなものが売れていて、それを好んで読んでいるような連中が多くなっている時点でかなりの悲劇だが、せめてこれからの将来ある人たちにそんな家畜の餌を無理やり食べさせるのはご勘弁いただきたい。


なんで僕がその種の本を「家畜の餌」だなんてこき下ろしてるかって??


それは、それらの本がある種の人間の想像力を毀損するからだ。
もしかしたら想像力が毀損された人間がこの種の本を好んで読むのかもしれない。


まあ、原因か兆候かってだけで、本質的に由々しき事態であることには変わりない。
というか、interrelatedだろう、おそらく。


画一化された価値観
集団心理における安心感
思考・想像の放棄
文化的成熟欲求の枯渇


めんどうだから、誰かかわりに説明して欲しい。


でも、想像力がないことにそんな問題はないかもしれない。
母親のお腹を切り裂いて人形を入れることの結末が想像できなくなってしまうくらいのことだからな。



「多くの人が泣いた」なんていうキャッチコピーが目に付くが。

あんなものに「多くの人が泣いた」なんてことが仮に事実だとしたら、

本当にもう、どうしようもない。









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歌は終わった。しかしメロディーはまだ流れ続けている。
2008-01-12 Sat 16:31
いつからだろう、電車やバスの中での耳に入ってくる他人の会話に聞き耳を立てるようになったのは。

大抵その会話は僕を絶望的な気分に陥れる。

そしていつも、僕は聴くことを拒否する術を持っていない。
もちろん、iPod Shuffleで物理的にシャットアウトすることはできるけれど、一度嫌だと思ったものを強制的にそうするのは敵前逃亡のようで気分が悪い。


なんで絶望的になるんだろう?


その話の内容があまりにも下らないから?


否、そうじゃない。


多くの場合、耳に入ってくる内容は浅薄な人の噂話やどうでも良いテレビの話ではあるが、そういう話だって時には必要だ。


常に本質的な話ばかりしていれば、どんな人間だって磨耗してしまう。
そんなことは僕にだってわかっている。


それに、赤の他人の会話の内容に自分の価値観を押し付けるほど僕は排他的ではないし(傲慢ではあるかもしれないが)、そもそもそんなに他人に興味があるわけでもない。


じゃあ、何が僕に絶望に近い気分を体験させてくれるのか?


それは、彼らの会話の枠組みだ。


端的に言うと、「彼らの会話には質問がない」


これに尽きる。
それゆえ、彼らの会話はミューチュアルじゃない。


よほど読解能力が高い人間(極稀にいることはいるが)以外にとっては、一度も質問をしないで相手の言っていることを理解することは限りなく不可能に近い。


相手の言っていることを論理的に理解することにも「質問」は不可欠だし、その奥に隠れているニュアンスを掴むためには言わずもがなだ。


彼らの会話には質問が全くない。
もちろん、質問と言う形(クエスチョンマークを伴っているという意味で)をとった発言はある。

しかし、そこには相手の言ってることを理解したいという、能動的な意思は存在しない。
これは、ここで言う質問とはその性質を決定的に異にする。


このことが意味するのは、「お互い相手の話に全く興味がない」、もしくは「理解するということ自体を知らない」である。


後者であった場合は彼らの認識(お互い話が通じた)とは裏腹に、その話題である限定的なトピックに関してすら相互理解は成立しない。
(前者であれば、裏腹ということにはならない、そもそも興味がないのだから)


だから僕は、初対面であろうと友人であろうと、積極的に質問や反論をしてくる人間を好むし、信頼する。


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世界に対して文句があるなら、子供なんて作るな
2008-01-10 Thu 23:43
との記述。

「羊をめぐる冒険」の中での一コマ。



これって色々な意味で今自分が「子供を作る」ってことに対してのスタンスと同じだなと。




まずは、一つ目の意味で。


子供を安心して送り出せる世界を将来にわたって確約できない、という意味。

確約する必要はないか。

「可能性すらないように思える」って言った方が正しいかな。

「環境問題」とか「資源の枯渇」とか「治安の悪化」とかそういう生活に直結するような問題とは少し違う。

各々の構成要素がその集合体の本質に興味を持たなくなって、
従属的になっている世界には本質的な幸福が存在しえないんじゃないかってこと。

言い換えると、世界は嘲笑で飽和してる。


誰だって、可愛い我が子を嘲笑で飽和している世界に投げ込みたくはない。

こんな風に書くとひどく厭世的だけど、そうじゃない。

僕自信はそういう世界で生きて行くのは、すごく楽しい。
(勿論それに迎合するという意味ではなく)

多くの構成要素に集合体の舵を取る意識がないことは同時に、
数少ない(比率が少ないと言うべきか)それを持つ者にとっては上昇できるチャンスが多いことを意味するからね。


本来的には、そうやって上昇した数少ない構成要素が、
他の構成要素を啓蒙して本質的な幸福のある世界を作れば良い。


でも、それは有り得ない。
なぜなら完成と終焉は同義だから。


おそらく人間は本能的に終焉を回避するんじゃないかな。




二つ目の意味。

それは、戦う際に足枷になるってこと。


戦うだなんてまた随分とたいそうなアナロジーだけれども。


別に何らかの体制と戦う場合に、
家族がいたら圧力をかけられてどうこうっていうような具体的な問題じゃない。


そもそも、ある体制に圧力をかけようと思わせるほどのバトルフィールドに上がった時点で、
その戦いの勝利を半分手にしているようなものだしね。


もっともっと、内なる、というかスケールの小さな問題。


「守るべきものがある」という意識、というか事実。


これによって、人間はある段階までの負荷を跳ね返せるようになる。

でも、それ以上の負荷領域に入ると一気にその事実が闘争心を萎縮させる。


デフォルトリスクをテークできなくなる、リターンがどんなに魅力的でも。

元本保証という言葉を追い求めるようになる。経済的な話に限らず。


だから僕は戦える人間しか家族にはしない。

精神的にも、能力的にもね。


何で武装するかは人それぞれだけど。

ビジネスのセンスかもしれないし、法律かもしれないし、医療技術かもしれないし、芸術的素養かもしれないし、資本そのものかもしれない。


そこに思想が随伴することは必須だけど、それ以外に武器選びの制限はない。

高度に洗練させた思想はそれ自身で武器にもなり得るしね。


そういう武装をした家族は、「守るべきもの」ではなく、「共に戦うもの」だからそれは大歓迎。
(あくまで、戦うというアナロジーにこだわれば)


だから、どう頑張っても一定期間無防備で武装できない時間を甘受すべき「子供」はやはり今のところ受入れられない。



ここまで書いたけど、別に子供を産むことを否定しているわけじゃない。

どんな解釈をしたって、本質的に子供を産み育てることは尊い。それも最も。



ただ、尊いことと、僕のしたいことは違うっていう話。
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